Saturday’s Kidsが主催したライブパーティーは、クリスマスモダーンパーティ以降、Kids Over Partyというネーミングで、各パーティー毎に副題が付きました。(年越しパーティーを除いて)
このKids Over Partyというパーティー名の由来はおそらく中心メンバーのトダカ氏考案による ものと思われます。
Kids Over PartyはSaturday's Kids主催のライブパーティーとして行われ、Vol.4を最後に行わなくなりました。 Kids Overの4回の詳細と、なぜ行わなくなったかについて、自分なりに考察してみました。
Kids Over Party Vol.1 “Get Set”
Bull the Dougs とファンたち 後のDeterminationsの高津さんがいますね。
Education,このときはボーカルは3人ですね。
マージービート
クリスマスパーティー以来初、そしてキャパの大きいホールということもあり、とても盛り上がりました。
am Hallはとても雰囲気のあるホールで、入り口は曽根崎の飲み屋街なのでわかりにくいところにあるんですが、エレベータを降り、ホールの入り口を抜けると踊り場から一気に階下のホールが見渡せるホールで、今でも健在ですね。 収益的には、ちょい赤字かトントン程度だった記憶があります。
1回目のライブパーティーということもあり、Saturday’s Kidsメンバーも頑張ってチケットを売ってくれました。
Kid’s Over Party Vol.2 “High Number’s Night”
Kids Over Party Vol.2は1986年5月11日、に大阪駅前ビル近くのBeat Club Mで開催するはずでした。ところが、信じられないことですが当日Beat Club Mの急遽店じまい?という信じらない事態に遭遇し、ライブパーティーが出来なくなるという前代未聞の事態に見舞われました。 あまりの突然の出来事に、頭を抱えた運営メンバーは、責任者と直談判し、急遽同日夕刻Candy Hallで当初の2時間遅れで開催できる運びとなりました。
当日の参加バンドは、Morelets Chaao, Mersey Beat, Brightonの3バンドでしたが、Brightonのベースのテッチャンが、交通事故のため急遽参加できなくなりライブは2バンドのみで行われました。 当日自分は会場手配を仕切っていたトダカ氏よりいきなり店じまいの事を聞かされ、頭がテンパっていっぱいになった記憶があります。責任者との話し合いには自分は参加した記憶がないのですが、トダカ氏の尽力?それとも脅し??かどうかは今となってはわかりませんが、当日に行えるように持って行けたのは、トダカ氏の力が大きかったと思います。
自分は、間違えてくる人がいるかもということでギリギリまで元Beat Club Mの前で立って、ライブに来る人に案内して誘導案内していました。
今から考えると、amHallはレンタル費用がかなり高かったので、もう少し小さな箱で、安いところということでそこを選んだと思うんですが、安いなりにはそれだけの訳があったということかと思います。 当日は、マージービートのホーンが抜け3ピースとなり、且つドラムが花石くんから大西くんに交代して第一回目のライブだったので、演奏にも気合が入り、会場も開始時間が遅れたこともあり観客のボルテージもいいぐらいに上がっていたと思います。 ライブ音源がありますので、ぜひ聞いてみてください。 収支は、トントンだった記憶があります。
ライブ後のSaturday's Kidのメンバー、受付のトシオとダシオ君
Kids Over Party Vol.3 “Swinging Summer Time”
Kids Over Party Vol.3は1986年8月3日、大阪梅田のCandy Hallで開催されました。 参加バンドは、Morelet’s Chaao, The Chess, Chelsea, Education, The Collectors, Mersey Beatと今まで最高の6バンドの主演で行われました。 初参加のThe Chessは滋賀から駆けつけてくれました。これ以前のCandy Hallの企画ライブで見て、MODSバンドということで参加を打診したら快諾してくれました。 いつものMorelet’s Chaaoは一部新メンバーでのライブ、Chelseaは関西御三家のMODSバンドThe Modernsの内藤くんが組んだ新しいバンドでした。 Educationはこれで2~3回目のSaturday’s Kidsライブへの出演で、メンバーの方もSaturday's Kidsのライブはオーディエンスが最高なんで、毎回最高~と喜んでくれて、ライブ参加も快諾してくださいました。 The Collectorsはメンバーが前のライブで知り合った当時高校生だった片寄明人くんが、「東京のコレクターズを大阪に呼ぶべきです!」と進言してくれ、間に立って色々調整してくれた結果実現しました。コレクターズのメンバーは10時間もかけて、大阪まで車で遠征してくださって、格安ホテルの「ホテル関西」に宿泊して当日のライブとなりました。 数人東京からコアなファンもついてこられていました。 後日、ドラムの田巻さんとは仲良しになりまして、ローソンのアナゴ寿司が絶品だったと何度も言っておられたことを思い出します。 マージービートは大トリだったのですが、コレクターズで観客がノリノリで少々疲れ気味なこともあり、ライブの際には少しカリカリしていたようです。 (映像中のMCで確認できます。) でも、観客はノリノリですね。
収支は赤字でした。これは後にも書きますが、東京からコレクターズを招聘したための交通費までは、売上でカバーできなかったためです。
当日のスクーターラン
Kid's Over Party Vol.4 “Final Set”
Kids Over Party Vol.4は12月3日、Candy Hallにて開催されました。
参加バンドは、Educaton, Mersey Beat, 東京から The Ace, Standardsの4バンドでした。
Educationもこれで4-5回目のSaturday's Kidsパーティの参加で、もう慣れきって途中で漫才のような小ネタを挟むなど、コテコテの大阪バンドの本領発揮というところでした。
Mersey Beatはキーボードが加入し、後のマージービートのスタイルを確立しつつある状態でした。
The Aceは前のBrighton Blue Beatsのアイ佐藤氏が中心となって結成されたグループで、大阪にはない本格R&Bスタイルは一瞬で大阪のファンを虜にしました。The Aceのメンバーも大阪でのライブをすごく気に入ってくださり、アイ佐藤氏はMCで「大阪に来てよかったー」と心から言ってくれ、BASSのマーク氏もマージービートのライブの際にフロアーで「わかるよ!俺ジャムキチだったしさ~」と言いながら、「大阪は燃えている、マージービートは最高だ!」とノリノリでした。
残念だったのは、Standardsのドラムの方が今日中にどうしても東京に帰らないといけない用事があるということで、登場順番も早め変え、会場が温まる前のいきなり東京からのバンドということで、ややうけ状態で、かつライブ終了早々に大阪空港まで向かわれたので、おそらく演奏も気もそぞろ??という感じの演奏になってしまっていたように感じられました。
ちなみにこの日、High Styleのまんじサンが、早い時間にライブ会場に来られたので、始まる前に一緒に広島お好み焼きを食べに行ってお話しました。とても気さくな方で、お話できて光栄でした。
収支は赤字でした。理由は前回と同じです。
Kids Over Partyはこれを最終としてこれ以降は行われませんでした。 なぜVol.4以降開催されなかったのか? ここからは、自分の考察となります。 もし間違い等あれば指摘いただけると幸いです。
1つ目の理由は、これ以上の赤字を個人がかぶるのが限界だったためと思います。 東京からバンドを呼んだら、彼らへの旅費くらいは渡さないといけないので、最低でも一人1.5万+αくらいを包んでいました。これはトダカ氏の意向でした。後々のコネクションも考えてのことと思います。企画もアレンジも彼に追うところが大きかったので、彼が決定権を持っていましたので、ギャラの額に関して口を挟むことは出来ませんでした。 しかしながら、トダカ氏から金を出してくれと言われたことは、一度もありませんでしたがとはいえ、自分も社会人だったので、男気をみせるというか背伸びしてええかっこしていたんだと思います。 これがなければ正直採算はキツイですが、少し赤程度でした。 ちなみに関西のバンドにはギャラを渡すことは出来ていませんでした。 出てくださいというだけで、バンド側もライブに出れるということで喜んで出ていただいていました。 実際大阪の他のライブハウスに出ても、チケット渡されて、それが売り切れない限りは、ギャラが出るなんてことは1回もなかったです。
2つ目の理由は集客の限界です。
いくらライブパーティーを開催しても、一定数以上の集客が望めないと言う事と、其の壁を超えることが出来なかったからです。
MODSバンドを集めて大阪でライブパーティーをしても1かなり多くて150人、普通は100人行くか行かないかでした。
受付で人数を数えて、ヤキモキしていた当時のことを思い出します。
損益分岐ラインはライブハウスの機材も含めたレンタル料を捻出するためには、お客さんが120人程度入ることくらいだったと思います。
Kids Pver Partyは、1回目はSaturday's Kidsの良く知ったバンドのみで、2回目はSaturday’s Kidsにさらに近いバンドで、3回目は、東京よりコレクターズを呼び、他の関西のMODバンドを2つ呼び、総勢6バンドで、4回目は東京からのバンドをさらに2つに増やし合計4バンド・・・と、色々試行錯誤しても思ったように集客は伸びませんでした。
毎回ほとんど来るのは同じメンツで、それもどんどん減っていったように覚えています。
告知も含め、自分たちにも、もっと出来たこともあったと思いますが、当時の自分たちはこれが限界でしたね。また、ライブハウスのように出場バンドにノルマをもたせるなんてことも今から思えば出来たのしれませんが、其の頃は考えもしませんでした。
チケット販売は自分たちのツテを頼った手売りと、レコード店委託分、当日券のみでした。
其の結果、大阪ではムーブメントと呼べるようなシーンを作ることが残念ながら出来ませんでした。当時の大阪は、インディーズの場合METALが一番ライブで客が呼べるジャンルでしたね。
いつも利用していたキャンディホールでも、一番集客が良いのはヘビメタのライブでした。
次がPunkですが、有名どころじゃないと厳しかったですね。EggPlantが動けないほど満杯になることはほぼ無かったのではないでしょうか。
結局客が入るのは東京から来たメジャーなバンドのライブでした。
東京のようにメディアやライブハウスがバンドを育てるというような文化は残念ながら大阪にはないように思えました。
メディアも全て東京中心でしたし、関西の情報誌に掲載された程度では、お客さんの増加には繋がりませんでした。
あと、大阪では他のDJや知り合い達が主催するDJ付きの60s系のパーティーもあったのですが、Saturday’s Kidsが主催して行うことはありませんでした。一度小さな場所で其のようなことをしたような記憶もありますが、身内しか来なかったというのが実情でした。 当時DJイベントの中心といえばサンホールでしたが、ホールが大きすぎるので、そのレンタル費用が高く、小さなイベントを行うことは困難でした。 東京のようなマンスリーイベントが行える環境は大阪にはありませんでした。 あとは、マンネリですね。新しいバンドが出てこない。これはもう仕方ないことですが、 常に前回よりもお客さんが減っていったのは事実でした。
主催者の中心人物のトダカ氏とも存続を話し合った記憶がありますが、彼曰く 「もうええんちゃう。」って感じでした。 こちらとしても正直持ち出しがきつかったので、それ以上継続の話にはなりませんでした。 この頃になると、Saturday's Kidsのライブパーティーの運営メンバーと、Saturday's Kidsのメンバーの間で役割が別れて自然と運営メンバーは中心の数人のみとなっていました。 実質的には殆ど最後の方はトダカ氏が、会場、バンド選び、話し合いなど殆どを一人でこなしていたように覚えています。自分も数度出場バンドとの事前話し合い等には顔を出しましたが、ほとんどすべて彼が一人でしていたように思います。
おそらくトダカ氏は、パーティーの運営を通してこれ以降シーンを盛り上げることよりも、Mersey Beatをメジャーにすることの方が重要だと考えたのではないかと思います。実際それ以降はその方向へシフトして行きました。
かく言う自分も、ライブ等でバンドと一緒に過ごす時間がどんどん多くなっていったことで、ファーストシングルのレコーディングくらいからマージービートとアレキサンダーに色々深く関わるようになってゆき、スタジオにも毎回入り、ライブも帯同し、写真を撮影し、サポート、運営に深く関わってゆきました。
そうすることにより、Saturday's Kidsの事も、ライブパーティーも、自分が制作していたNew Directionのこともあまり考えなくなりました。忙しかったのも事実ですが、バンドにより近づいてゆくことで、メンバー目線でものを考えるようになり、バンド中心になっていったからでしょうね。
つまりのところ、当初同好の士で共感し会える仲間を見つけたくってSaturday's Kidsを作り、そして仲間が集まり、最初は群れて楽しむことが良かったんだけど、時間が立つに連れいろんな問題のために集まりが継続できなくはなったけど、でもいつでも会える仲間ができたのと、今度は更に新しいことに興味が湧いて、皆そちらに進んでいった結果、自然消滅していったということではないかと思います。あまり消滅するという気も無かったですし、自然に問題とは感じなかったということを考えると、守ること、とどまり続けることよりも、変化して前に進むことが良かったんでしょうね。 其のへんも大阪らしいと言えるかと思います。
番外としては、年末パーティーがありましたが、このことは別の機会に書きたいと思います。
By:鈴木博之
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