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Latter Period and end of Mersey Beat

更新日:2021年7月9日

その後のマージービート


自分は「後は任せろ!」と、威勢よく啖呵を切ったものの、実際はなんのあてもなく、毎週2回、3人でスタジオに集まっても、メンバー2人では練習することも出来ません。 なんとなしに、スタジオでこれからのことを相談したり、自分はトロンボーンを持ち込んだり、ドラムの練習をしたりしていました。ベースも練習したかな? そういう時間が、2週間くらい続いたと思います。

12インチが出た後に一緒に中戸くんと、大阪のKittyレコードを訪れたことがあります。なんとか関係を発展させられればという気持ちと、この方たちならなんとかしてくれるんじゃないか、なんとか次のステップに進めないか、そのきっかけを貰えるのでは?という下心でいっぱいでした。 でも、レコーディングではあんなに優しかった田村さんやその他の方々は、思いっきり塩対応でした。一番若いスタッフの方が、半ば仕方なくって感じで、飲みに誘ってくれましたが、バンドのメンバーが抜けたけど、新メンバーを加えてこれからどんどんやってゆきます、みたいなことを報告したのですが、深い溜め息の後、呆れ顔で、「何考えてんねん!」と一喝され、「アマチュアのくせにマネージャーを付けたり、プロみたいな事するな」とか、色々説教され、「事務所所属?そんな事...とにかく認められるまで積み上げてゆくしか無い!」みたいな事を言われました。 甘さと下心が有りましたので、凹みましたネ。 自分も中戸くんも無口で頷くしか有りませんでした。

この話で吹っ切れたのか、中戸くんが元々温めていた構想を実行するため(?)に動き出しました。ドラムには旧知の仲の元サニーバルコニー、Dfのドラムで、マージービート初代ドラムの稲田君を誘い、稲田君も快諾してくれ、今度は真面目にやるからとのことでした。(昔は不真面目だったんですかね?よくファミスタや麻雀でカモにされましたが。) 又、女性ボーカル&コーラスとして、桑ちゃんを迎えたいとのことでした。 桑ちゃんはカーニバルの元バイトで自分も旧知の仲でしたが、桑ちゃんはバンド経験がなく、おまけに社会人だったのでほんとに大丈夫?って中戸くんに聞き返したことを覚えています。彼は、「大丈夫!」といい、「彼女の声はイケルと思うから」と、随分自信たっぷりでしたね。ところが、ベースがどうにも見つかりません。お互い心当たりもなく、中戸くんは「ベースが弾けてバンドをすることに興味があれば誰でも良い」ということだったので、当時自分が所属していた京都の「ピーチヒップス」のベースだった、伊藤くんを勧誘しました。ピーチヒップスは2月のライブで解散が決まっていたので、彼も次の所属先を探していたようで快諾してくれました。

こうして、新生「マージービート」のメンバーが決まりました。


この後、自分がマージービートから離れるまで、中戸くん、稲田くんとは毎回練習後、頻繁に遊んだり飯食ったり夜遊びしていましたね。中戸くんの家にもよく遊びに行きました。中戸くんのお父さん(既に亡くなっておられましたが)が詩人だったと聞き、詩集も読ませてもらって、「さすが遺伝やなぁ」と感心したものです。 彼は家に変えるとすぐにパジャマに着替え、お母さんの取り置いてくれていた晩御飯をつまみながら、パジャマ姿で鼻歌を歌い、ストラトを弾いて作曲していました。彼曰く、彼の作曲法だったそうです。あと、彼の部屋の天井に星座の蛍光ステッカーで全天図が作ってあり、電気を消すとプラネタリウムのように光っていた事をよく覚えています。彼は本当に天体観測も好きでしたね。また、鴻池新田のお好み焼き屋に二人でよく行きましたね。その店はなぜか深夜4時頃まで営業していたからですが、彼は豚玉に七味をかけて食べるのが好きでしたね。こんなどうでもいいことは本当によく思い出しますが、当時の歌の歌詞が思い出せなかったりします。


そして、又週2回STUDIO YOUでの練習が始まります。 中戸くん、カナちゃんは問題ないですが、稲田くんはマージービートを離れてもう5年近くの時間が過ぎ、曲もほとんど新しいものになっていたので、まずは練習からとなりました。伊藤くんは、当初技術的な問題が有り、(Rebellionのベースソロが弾けない、コーラスが出来ないなどなど)まずはそこを乗り越えてゆくことが、課題となりました。桑ちゃんも今まで無かったコーラスを無理やり作ってかぶせるわけですから、かなり大変で無茶振りな部分も多々ありました。(そこ適当にお願いみたいな。)彼女も初めてのバンド(今まで全く未経験)なので、かなり苦労が有りました。ある程度形になるには1ヶ月以上の時間が必要だったと思います。

女性コーラスが加入したということで、中戸君は彼女を全面に押し出した曲を作り出します。 「Spring Rain」「ウォータールーの少年」や、「ロシアの日曜日」などはこの時期に作られた作品です。 そして、4月頃にはStudio Aにて徹夜で2曲を録音し、デモテープを作りました。 それらがこの2曲です。 すっかり忘れていましたが、このテープのダビングもカバーをコピーして作ったのも、テープを心斎橋で調達したのも自分だということを今朝思い出しました。(笑) Spring Rain

ことばなんていらない


完全に形になっていない状態でしたが、実践を積んでゆこうという中戸くんの意向で、4月頃からライブに出演するようになります。 雰囲気はガラッと変わりました。 £マークのRickenbackerを弾いてはいますが、小洒落た格好の80年代バンドの雰囲気で、MODSのMの字のカケラもありませんでした。 雰囲気は変わっても、昔とった杵柄ではないですが、ネームバリューは多少あったのでライブのブッキングはそこまで難しくなかったようです。月2回位ライブに出るようになってゆきました。


自分は次のステップを考え、88年の5月初旬、マージービートのレコードとデモテープ、写真を抱え、東京のライブハウスと雑誌社への売り込みを行うために上京しました。 ついでにコレクターズの日清パワーステーションでのライブも見に行きました。さすがコレクターズはもうバリバリのプロですから、すごく刺激を受けましたね。マージービートもいつの日かこのように!と、心に誓ってパワーステーションを後にしたのを覚えています。 カラ元気はあったものの、殆どのライブハウスは門前払い。渋谷ロフトなんかは「そのへんにテープ置いといて!」って感じでしたね。唯一まともにDEMOテープを聞いてくれたのは新宿JAMだけでした。すぐに、「ライブの日付BOOKINGしますか?」って感じで日取りも決まりました。思わず涙出そうになりましたね。

雑誌社にも果敢に乗り込みました。事務所横の公衆電話から電話して、「すぐ近くにいるので3分だけ時間をください」と遺留捜査の糸村刑事なみの粘りで、宝島社はかなりの塩対応でしたが、レコードと写真を強引に渡してきました。 あんなに塩対応した割には、その後のバンド特集で渡した写真がきっちり使われていたときには、「オッシャー!」と一人で喜びました。 フールズメイトは逆にすごく好意的に応対いただきました。編集部とはいえ普通のおうちでしたので驚きました。ただ、実際に掲載されたレコード評はかなり厳しいものでした。

東京ライブも決めて、さあ新生マージービートはこれからと意気込んだのですが・・・ 88年6月に自分の身に重大な事が起こりました。



母が少し具合が悪いということで、検査のために入院したのですが、同日医師から「がんで余命6ヶ月」と告げられました。ほんと、青天の霹靂でした。そんな事を告げられるとは、微塵も考えていませんでした。 自分はそれまで数年間バイトとバンドばっかりで、母のことを顧みずにいました。ホント親不孝者でした。もっと早く気づいていればと後悔しましたが、もうどうにもなりません。


正直悩みました。それまで打ち込んできたマージービートがようやくまた形になり、活動しだしたのに、ここで手を引くことは、どうなんだ・・・と。 最初原稿を書いた時には、忘れていましたが、おそらく中戸くんと相談したと思います。 そして、彼は、「俺ならやめる」と言ってくれたように思います。 断腸の思いで後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、自分は母の余命がある限り母に寄り添わねばと思い、バイトを辞め、バンドのメンバーにも今後一切手伝えない事を伝えました。 彼が背中を押してくれたんだと思います。 そして、実行しました。母には、がんのことも余命宣告も秘密でしたので、(当時はそんなもんですね。)逆にいぶかしがられたり、早く仕事を探せなどと言われていましたが、「まあまあ、わかってます、考えてます」などと言い誤魔化していました。 今のようにSNSなんかがあれば、マメに連絡も取れたのかもしれませんが、連絡するとそのことに気が移って気になって、又スタジオに行きたく成ったり、ライブに顔だしたくなるので、敢えてメンバーにコンタクトしませんでした。 アルバイトを辞めたのが7月の終わり頃で、8月~9月頃に1度だけスタジオを除いたことがあります。皆笑顔で迎えてくれ、伊藤くんが運転してTOKYOまで行った事とか、最近の曲とかも聞かせてもらって、時間が許す限り色んな話をしました。でも、皆と会ったのはそれが最後でした。


その後、一度カナちゃんがスタジオで録音した練習テープを送ってくれました。おそらく89年の1月~2月頃だったかと思います。 中には、自分が居た当時から練習していた、「ウォータールーの少年」と「ロシアの日曜日」が入っていました。とても感激したことを覚えています。 ただ、その頃は母の具合がかなり悪く、病院から家にいつ呼び出しの電話がかかるかもしれない状況だったので、ありがとうの連絡もできず、バタバタとした日常に追われ、お礼も忘れてしまいました。 母は89年の3月に亡くなりました。結局10月から3月まで6ヶ月間毎日12時から7時まで毎病院で付添い、亡くなる1週間前からは病院に泊まり込みでした。 その間に2回、東京に丸山ワクチンを貰いに行きましたが、行きは深夜に大阪から急行銀河で、帰りはワクチンを受け取ったらすぐにタクシーで東京駅まで行き新幹線に飛び乗って大阪へ戻り、又タクシーですぐ病院まで・・・という具合でしたから、他のことは一切できず、バンドのことまでは頭が回らず、また考えないようにしていました。 それから、葬儀だ、49日だ、香典返しだと、日々忙殺され、ようやく落ち着いた頃には亡くなってから2ヶ月近く経っていました。 自分は完全に燃え尽きてしまい、何も手に付きませんでしたが、母の入院中から一区切り着いたらイギリスへゆこうと決めていましたので、その事を実行することにしてすぐイギリス行きの航空券を手配しました。 まずは、自分の為に時間を使おうと思ったんだと思います。 渡英前に一度中戸くんが会いに来てくれました。たしか、バンドはやっているというようなことを話したと思います。

彼から借りていたストラトを引き取りに来たのがメインだったのですが、弦が数本切れていたか、外れていたのを見て彼は気分を害したようで、プイッとして口を聞きませんでした。 一緒に来たシカタが、自分の部屋で手に持っていたアマガエルをいきなり部屋の中に離したりしたので、(おそらく彼は酔っていたか、ラリっていたのかも。)「お前何してんねん。頭おかしいんか?」と自分がキレてシカタに言ったら、2人で顔を見合わせて、「頭おかしいって言われたわ。」といい、家を出てゆきました。それが最後の中戸くんの顔を見ての会話で、なんとも後味の悪いものでした。


渡英後数ヶ月、ばったりトシオと中戸くんが会ったそうで、その時は中戸くんは、東大阪の大蓮か平野の加美で働いていたようです。その時テープに会話を録音して送ってくれました。自分がトシオに送った手紙を読んだとかで、「頑張ってるなぁ」みたいな感じの話で、「元気をもらった」と言っていました。すごいポジティブでしたね。でも、その職場もすぐに辞めてしまったようでした。


それが、自分と中戸くんとの最後のコンタクトとなりました。 マージービートに関してはいつ頃活動を停止したのか定かでは有りませんが、92年頃にはもう活動していなかったようです。良くはわかりませんが、良い形での解散ではなかったようです。その後の彼の音楽活動のことは殆どわかりません。 唯一わかったのは、数年後、2代目のドラマーだった花石さんと梅田や東通りで2人で弾き語りなどしていたそうです。でも、マージービートの曲は一切歌わなかったそうです。 また、その後些細な事で連絡がつかなくなったようです。 その後の消息は一切わかりません。

 

自分はと言うと、6ヶ月のつもりの渡英が、気がつけば今年で在英32年となりました。 あれから自分の人生も色々ありました。重い自閉症の息子が生まれ、その子に関わることで精一杯で、あともう2人の子育てをして、94年頃からは自営業を始めたので、もう日々を生きることでいっぱいでしたが、長男も施設に入り、後の2人も成人したことでようやく家を整理したり、自分の事に向き合える時間が少し持てるようになりました。 その際に、実家が取り壊しになる前に一時帰国したときに持ち帰ったテープやビラなどを片付けだし、昨年のコロナ禍で仕事も暇になったこともあって、当時の事を振り返る時間と少しの余裕が持てました。


中戸くんはマージービートを通して、沢山の人に影響を与え、心に残る詩を残してゆきました。自分の人生にとってあれほど情熱であふれ、心から熱くなり、心酔して一緒に時間をともにしたマージービートはとても大切な自分の一部でした。

今回、イッチュウ、ツクダから、中戸君の消息を知らないか?探さないか?と持ちかけられました。カーニバルプラザ時代の中戸くんの友人や、自分たちの知る限りのコンタクトを当たり尽くし、でも手詰まりになりました。

自分は元々IT分野の仕事をしていたのでネットを使って探すことができるのではと思い、すぐにホームページを作り、Saturday’s Kidsとして立ち上げました。

当時の資料や音源、その当時の出来事を振り返り、記事を書くにつれ、どんどん記憶が蘇ってきました。そして、Saturday’s Kidsと自分とは切っても切れないマージービートの事を書かねばと強く思い、自分が関わった出来事を振り返って文書にしてゆきました。


そうして、書けば書くほど、どんどん思い出して行き、心に封印していたメンバー脱退のことまでをも脱退したメンバーと一緒に書くことができました。

そうして、自分が知り得る限りの中期~後期のマージービートの事をまとめました。

こうして、自分が知っていることを書き終えると、その後の中戸くんがとても気になります。

中戸くんはどこでどうしてるんやろう?



本当にどうしているのか? 元気でいるのか?

もし、このホームページを読むことがあれば、もしどなたか消息を知っている方がおられたら、ぜひご連絡ください。

もし、中戸くん本人が見ることがあったら、何をおいてもぜひ連絡頂戴ね。 みんな、本当にあんたに会いたがってるから。




 

追記: 先日、中戸君より連絡がありました。 中戸君、連絡をくれて本当にありがとう!!

By: 鈴木博之


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