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Snack 憩い

更新日:2022年6月23日

スナック「憩い」のお話 (記憶が曖昧で少し創作が入っているかもです。)


1986年秋頃、我々Saturday’s Kidsの運営メンバーは、メンバーの伸び悩み、シーンが育たないことを憂いて、いつも飲み屋や茶店でウダウダ相談していました。 メンツは大抵、戸高くんと自分、トシオでした。


”ライブパーティーはそれなりに盛り上がるものの黒字にならない。” ”FUNZINEは発行するものの、思ったほどの反響がない。” ”MODSバンドはいるが、いつもライブができるわけではない。そんなハコもない。” ”メディアに取り上げて欲しいけど、どこにアピールしたらええのかわからない。” ”DJイベントしても、客が呼べない。”(まぁ手持ちのレコードも圧倒的に少ないんですが。)

まぁ、素人が世間を動かすムーブメントを作ろうなんて、土台無理があることなんですが、当時はそんな事は考えず、 とにかく前に進もうと、色々考え悩んでいる状態でした。


おそらく、いつものパターンでだるそうにタバコを燻らせながら、こんな話をしていたと思います。 「どうやろね、・・・戸高くん?SKには何が足らんのやろ?トシオはどう思う?」 「うーん、何やろなぁ、戸高くんは?」

「うーん、・・・例えば溜まり場的な場所?かな?」 「それって、Quadropheniaでジミーがピンボールしている店みたいな?」



溜まり場・・・的な場所というか、よく溜まる場所といえば、アメ村の三角公園、(甲賀流でたこ焼き食いながら。)カンテグランテ、アメ村周辺のお店と、谷町の加奈泥庵、空堀商店街のお好み冨紗家くらいでした。でも、溜まり場とは言えない場所でした。 あと、ミナミの古着屋があるビルのラウンジとか、よく行くFitsのような古着屋、666みたいな洋服店、中古レコード屋さん、茶店はありましたが、新宿のSWITCHのようなMODな店はありませんでした。また、そこでウダウダしてたら、店のじゃまになるだけでした。

自分たちの好みの音楽がかかるような茶店やBarみたいな場所、気軽にいけて、常にそこにSaturday’s Kidsのメンバーが居るようなところ・・・今なら神戸のPUB Kennethなど良いお店はあると思うのですが、当時はそんなお店は全くありませんでした。 KENTOSなどというオールディーズ飲み屋は有りましたが、アメリカンオールディーズのお店で毛色も違いました。


そんな事を話しつつも、自分たちでお店が開けるわけはなく、その話は有耶無耶になりました。


ところがある日、戸高くんが「スブやん、溜まり場になりそうな場所が出きるかも。」

と連絡がありました。でもそこは大阪の某所で、ミナミやアメ村の近くでは有りませんでした。「とりあえず、日曜日にXXに昼の1時でどう?」と言われたので、二つ返事でこちらも応え、「じゃあ日曜に。」と電話を切りました。


そして日曜日、指定された住所に行くのですが、どうもそれっぽい店が見つかりません。 「おかしいなぁ?」とトシオと顔を見合わせながら、近くを歩いてみました。 でも、それっぽい店は見つかりません。 その住所の場所にあったお店は、いかにも昭和風のスナック「憩い」でした。

(写真は実際の建物のではありません。ネットから拝借しました。)


スナック「憩い」は、その外観からもどこにでもあるスナックにしか見えず、「まさか、そんなわけないよなぁ。」と、再度顔を見合わせました。 携帯電話もGOOGLEMAPも何もない時代です。確認のしようもないので、勇気を出して恐る恐るドアを開けました。

「あ、鈴木くん。」 店の中から聞き覚えのある声が出迎えてくれました。見上げると、アメ村の古着屋FITSのヨシコちゃんの顔が。 その横には、よしえちゃんがいました。(よしえちゃんは、後に写真家として大成されます。)そして奥には戸高クンが。「毎度~スブやん。ようおこし。」とニヤニヤしながらいつもの笑い顔で出迎えてくれました。


話を聞くと、このお店はよしえちゃんのお母さんの営業するスナックで、日曜の昼はお休みだからそこを借りてお店をしようと、よしえちゃんとヨシコちゃんが盛り上がって、その事を聞きつけた戸高くんが、「SKのたまり場になるかも」ということで、自分たちに声をかけたのでした。

カウンターに腰掛け、自分は「ええと、なにかもらえる?飲みもんなにがあるの?」とヨシコちゃんに聞くと、「えーと、なにがあるんやろ??」みたいな感じで、開店初日だったこともあり、何がどこにあるかも一体何を出せるのかもわからない始末でした。(笑) んじゃ、なんか食べ物は?と聞くと、「えーと、なんやろ?(笑)」みたいな感じで、自分は仕方なく、「じゃあ、コンビニで買ってくるわ。いるもんある?」「じゃあ、私アイス!」と店に来た客が逆にコンビニに買い物に行くという、なかなか他には無い、ユニークな溜まり場ではありました。 一応カラオケ用のビデオも有り、有線もあるので、音楽ビデオ(SONY MUSIC TVを撮りためたもの)、パッケージの音楽ビデオとか有線で60'sのジャンルとか、をかけながら、ただただダラダラ話して、ユルユルと時間を過ごし、夜までいて帰るという、まあ・・・溜まり場にならないでもない場所では有りました。 それから毎週日曜日は、「スナック憩い」に通うようになりました。溜まり場を作るためには、Saturday’s kidsのメンバーが常駐せねばという責任感から、毎週通っていました。

二週目からは、ヨシコちゃんも「食べもん作れるよ!」とスパゲティがメニューに加わり、ビール、ジュース、スパゲティは頼めるようになりました。入り口扉にコピー用紙で作ったお店の名前(憩い以外のかっこいい名前)を貼って、営業が始まりました。

最初はよしえちゃんや、ヨシコちゃんのお友達、Saturday’s Kidsの面々が顔を出し、お店は15人も入れば満杯になるような店でしたが、最初の1~2ヶ月くらいは、まあまあお客で賑わったように思います。


そういえばこんなこともありました。 ある日曜の夕方、ビデオで当時人気の「死霊のはらわた」を見ようということになり、 よしえちゃん、ヨシコちゃん、自分ともう数名と戸高くんで見はじめました。今はもっと怖いホラー映画があるけど、あの当時は最強と言われるほど怖くって、見ていた皆も画面に釘付けになりました。途中で戸高くんは、「タバコ買いに言ってくるわ。」と店から出てゆきます。皆はストーリーに吸い込まれ、戸高くんの事は忘れて画面に見入っていました。そして、恐怖が絶頂になる頃を見計らって、「ワァ~!!!」と大声を上げながら店内に入ってきました。店内は恐怖と驚きで阿鼻叫喚。戸高くんは「計画通り~。」とデスノートの夜神月並みのゲスい顔で、ほくそ笑んでいました。

そんな楽しい時間もあったのですが、お店の場所がミナミから歩いて何分とか、そういうところではなく、西九条?それとも喜連瓜破の方やったかな? まぁ、離れた場所だった事もあり、流石に毎週通い続けるのはキツくなってきて、1回飛ばしていかず、・・・となり、だんだん足が遠のいていきました。

お店を続ける両名も、だんだん忙しくなって店を開けられない日が会ったりして、たまに行ってもお休みとか、そんな事もあったと思います。

そんなわけで残念ながら、Saturday’s Kidsの溜まり場計画は頓挫しました。

というか、元々はSaturday's Kidsだけの溜まり場のためではなく、当時の大阪で音楽やっていた、パンクの子やら、アメ村界隈の子たち、よしえちゃん、ヨシコちゃんの友人や彼女たち目当てのお客さんたちが来ていたわけですね。 なかなかうまくは行かなかったようですが、それでも皆が集まれる場所を、と思って奮闘してくれた、よしえちゃん、ヨシコちゃんには今でも感謝しています。



それにしても戸高くん・・・。 謎の人脈、謎の過去、そして謎の年齢(笑) 一体何を目論んで、いろんな動きをしていたんだか? 不思議で謎の多い人でしたが、ウマがあい、よく一緒につるんでましたね。 表にはあまり出ませんんが、彼なしではSaturday's Kidsもマージービートも語れない 程の主要な人でしたね。 追記:

その後、戸高伊知郎くんとは連絡が取れたのですが、その際には甲状腺がんで寝たきりでした。首から下はだめだけど、上は大丈夫ということで、話すことができました。

また、CHAOOの女性たちがLINEグループを作り、1年ほどいろんなコミュニケーションを取られてました。残念ながら先日亡くなられました。 自分は以前マージービートのことで袂を分かったこともあり、その後はなんかギクシャクしてうまく話すことができませんでした。

今思えば、不思議で謎な人で、後にも先にも彼のような人には今のところであっていません。豊富な人脈と知識、冷めてるようで・・・彼独特のノリがありました。


熱い時代を一緒に過ごせたことを感謝いたします。 ご冥福をお祈りいたします。

2022年6月23日

by: 鈴木博之











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