あくまでもこの文章は、私、鈴木博之の主観によるものです。
当時のメンバーの気持ちや考えは全く違うかもしれません。
その点ご留意ください。
また明らかな間違いや思い違いがあればご指摘ください。
レコーディングの後、いよいよプロに近づいたか?なんて夢を見て喜んでいたのは私だけだったのかもしれません。 私の思いとは裏腹に、メンバーにはこの12インチレコードのおかげで、どうも重圧がのしかかっていたようでした。 ところで唐突ですが、Mersey Beatの良さって何でしょう?
85年のHere Today では、作詞作曲の中戸君は、The Jamの強いメッセージ性に感銘をうけ、それから社会を見つめ直すようになったと語っています。
つまり、Mersey Beatはその初期の歌詞が示すように、社会に対するメッセージ、疑問をストレートに歌詞にしたため、激しいリズムに載せた曲が主体でした。 とても荒削りでしたが、それが魅力でも有りました。
その後、ホーンセクションが加わりソウル要素が強くなります。中戸くんの好みのためと花石くんの尽力の賜物とおもいます。JAMの変節も影響を与えたかもしれません。 その後ドラムが花石くんから大西くんに交代しますが、基本的なサウンドは変わらず、1986 Tokyo Modsメーデーにも参加します。その後ホーンが抜け3人に戻ります。原点回帰したバンドは、しばらくしてキーボードのカナちゃんが加入、そして最初1987年3月には自主制作EPを発売します。その後ベースが田村くんに変わり、バンドは2度目のピーク、そして2度目の円熟期を迎えます。(一度目は、中戸、山本、花石のスリーピースに、ホーン、3人が加わった時期です。)
キーボードが加わったおかげで、元々の3ピースに戻り、荒削りだった音にメロディアスな面が加わります。また、ベースが創立メンバーの山本くんから田村くんに変わることで、楽曲への捉え方、演奏スタイルに変化が生まれます。 そして、4人が作り出す世界は、今までと同じく社会に対する反抗的なメッセージのみならず、叙情的な詩や曲、今まで絶対書かなかったラブソング、また自分の五感を磨いて自然や周囲を感じて変化して行こうと言う曲や、過去にとらわれずに自分から変化しようというようなポジティブなメッセージの曲が生まれてきました。 つまり、The JamやMODSバンドと言うカテゴリーに縛られず、自分たちが感じて楽しく音楽を作り出してゆこうと変化してきた結果で、4人が生み出した化学反応の結果だと思います。
この4人作り出す世界は疾走感が強く、またメロディアスで、ライブで特に良さが際立つ事が多かったと思います。 ところが、この12インチレコードのアレンジで、その世界に狂いが生じました。
ライブの演奏と12インチレコードでは違いが合っても当然で、違ってて良かったはずなのですが、メンバー達、特に中戸くんは練習でもライブでもレコードのアレンジの演奏にこだわったように思います。
これは、自分の想像ですがプロのアレンジを受け、その音に寄せてゆくことがプロへの近道と思ったのではないでしょうか。12インチはフォーラスレコードからでしたが、Kittyレコードが実際の製作で、オーディション合格時にも、「将来性を見込んで」という話をコンテスト審査員のKitty大阪の方から言われたので、中戸くんには期待があったのではと思います。LIVEのMCで、「KITTYから12インチレコードが出ます。安全地帯もいるレーベルです。」という事を言っているので、おそらくは、そんな気持ちがあったんだろうと思います。
中戸くん、マージービートは今まで自分の音にこだわって曲を作っていただけに、この寄せてゆくという選択は、マージービートに大きな変化をもたらしました。 キーボードのカナちゃんは、そのためにD50を追加し、今までライブの演奏はDX7とハモンドだけだったのに、更にエレピとD50が加わり、4台のキーボードを弾きこなすことが求められました。超絶技巧のカナちゃんは、それをこなしていました。他のメンバーも演奏ではこなしていましたが、この変化はメンバー全員にとって、技術的な面だけではなく、気持ちの部分でもそれはかなり大変なことだったと思います。
そのイライラでしょうか、中戸くんはメンバーへのあたりがきつくなっていったように思います。リーダーですから、苦言を呈する役をも担っていたのでしょう。
コンテストに優勝し12インチレコードが製作できたにもかかわらず、その後のライブでは思ったようにお客が入らないことが続き、ライブハウスのブッキングによる対バンの相手の方が集客力も高く、客のノリがいい。
自分たちの番では客が帰ったり、僅かな反応だったりと言うことも多々有りました。また、アンケートを行ったら観客から辛辣な意見を言われ凹むことも有りました。また、ライブ後も録音したテープを聞いて反省会を行うことが増え、当然その方向は他メンバーに向けられることになりました。
また長年アマチュアバンドを続けてきた疲れもあったと思います。コレクターズのデビューなど、東京からは景気のいい話がどんどん伝わってきていたので焦りもあったのでしょう。
自分たちの音楽を見失い、どこかで聴いたような当時のポプコンに出てくるバンドみたいな音(フールズメイトの12インチレコード評)になってしまったマージービートは当然以前のような魅力がなくなり、演奏もバラバラなことが殆どでした。
皆、もがいていました。でも、出口は残念ながら見つかりませんでした。
いつもそばでマージービートを見て、音を聴いていた自分は、全体の雰囲気がいい方向に向かっておらず、かなりまずい状態であることは肌で感じていましたが、自分が意見をすることが良いのかどうかという迷いや、実際そういう事を言えないような重苦しい雰囲気でもありました。
それでも、もうすぐ念願の12インチも出るし、これはマリッジブルーみたいなもので、いざ12インチが出たらなんとかなると思っていましたし、思い込むようにしていました。これは演奏もしない自分の勝手な妄想でした。
そして、そのストレスが限界点を超えたときに、ベースの田村くんとドラムの大西くんは脱退を決め、その旨メンバーに申し入れました。同時に、それまでマネージメント全般で中心的な役割を果たしていたトダカくんも手を引くことを申し入れました。12月の中頃だったと思います。中戸くんは、去る者は追わずという感じで、引き止めませんでした。
そういう話になり、止めても引き戻せないところまで来てしまったことを痛感した自分は、 当時「せっかく12インチが出るのに。なんでやねん?これからやんか!」という気持ちばかりで一杯になってしまいました。そして、自分はマージービートの存続を望み、中戸くんと行動をともにし、抜けない選択を選びました。そして、続ける自分たちが正しい選択で、抜ける彼らは誤った選択をしたと思いこんでいました。
本当は、引き止める事為の努力をもっとするべきだったのでは、もっと話し合うべきだったのではと、今になって「たら、れば」ばかり思いますが、当時は若さも有り、考えが浅かったですね。 しかし、「やめることを選んだ3人の方がもっと辛かった。」と、今更ですが気付きました。
目の前で今までの努力の結晶が形になるのをわかっていながら、それを捨て去るのは本当に勇気がなければ出来なかったことだったとおもいます。とても苦しい決断だったでしょう。
この出来事を今まで自分はずっと心のなかにしまい込んできました。
その後しばらくして自分は渡英し、約10数年後一時帰国した際に脱退したメンバー達と再開しますが、その際にはこの話題は封印して、もう話さないと決めていていましたが、もやもやした気持ちは消え去ることは有りませんでした。
今回、マージービートの活動を振り返り、当時の写真や音源を整理し、ホームページにUPし、脱退したメンバーと当時のいろんな事を確認したり話しあうことで、自分が忘れていたこと、気づかなかった当時の事、その時のメンバーの気持ちに触れ、色々なことに改めて気付かされました。
そして、文章として書き、過去を振り返り整理することで、楽しかったこと、苦しかったこと、色々なもやもや、そして悲しみを昇華させられるのではないかと思い、その時のことと気持ちを正直に綴りました。
脱退したメンバーも同じ気持ちでした。
一応にあの熱く濃厚な時間をポジティブに捉えられるようになったと言ってくれました。
残念ながら全てのメンバーと話せたわけでは有りませんが、いつの日か話せるようになることを祈っています。
2人とトダカくんの脱退が決まったあと殆どのライブはキャンセルしたのですが、1987年12月31日の年越しライブと、翌1月の尼崎のライブを最後にマージービートは休止となります。
皮肉なことに、解散が決まってからはスタジオ入りもせず、ライブの日も直前に顔を合わすだけだったにもかかわらず、演奏はピッタリ息が合い、今までにはないほどのいい演奏だったことを覚えています。本当に、巻き戻せるものなら時計の針を巻き戻したかったですね。
自分はその後、「せっかく12インチが出たのに」という気持ちの強さの為、マージービートの存続を願い、中戸くんとともに、新しいマージービートの結成に奔走します。
でもこの続きは、又の機会に。
。
Comments